こんにちは、ワトル英語塾の山下です。引き続きマシュー・フリンダースについて、今回は彼の人生について掘り下げていきたいと思います。前回、彼について認識したのは大学入学後かなりたってからだったとお伝えしましたが、そのきっかけは写真にある銅像でした。アデレード市内のノーステラスを歩いていた時、「おー、カッコイイ銅像!」と思い調べてみると台座に”Matthew Flinders”とあり、「自分の大学と同じ名前やー」と間抜け面で呟いていたのです、、、。実際彼の名前は国立公園や大学、医療センターなど多くの場所に使われています。

フリンダースは1774年、英国のドニントンで医師の息子として生まれました。幼いころからロビンソン・クルーソーの小説に夢中となり、将来は海洋探検家となることを夢見るようになりました。当然息子を医者にしたかった父とは対立しますが、彼の信念は固く15歳のときに王立海軍に入隊します。何のコネもなかった彼ですが、いとこが上級士官トーマス・パスリー提督の家に仕えていため紹介してもらい、見習いとして彼の乗艦、HMSアラートに乗艦を許可されました。その後、彼は努力し士官候補生にまで昇進しました。
代わり映えのしない毎日に退屈していた彼ですが、HMSプロビデンスに転属となりタヒチとジャマイカへの遠征の機会を得ました。英雄と呼ばれた航海士であるブライ艦長のもとで航海術を学び、ついにHMSリライアンスに配属後ニューサウスウェールズ・ポートジャクソンに向かうことになりました。1801年、HMSインべスティゲーターの艦長となったのち、幼馴染と結婚することになったのですが、海軍本部により彼女をオーストラリアへ連れていくことを反対され、妻を残して出航することになりました。オーストラリアの南西に到着後、南オーストラリア、メルボルン、シドニーへと航海し、測量や海図の作成を行いました。インべスティゲーター号が航行不能となり本国イギリスへ帰る途中、当時戦争中であったフランス軍によりスパイ容疑で捕らえられ6年間投獄されることになりました。釈放後帰国した彼は、航海記「テラ・オーストラリスへの航海」を執筆後病死しました。
彼の遺体はロンドン・ユーストン駅近くの教会に埋葬されましたが、前回お伝えしたように200年後に彼の棺(駅拡張工事の際行方不明になっていたとのこと、、、)が発見され、故郷ドニントンに移されました。
2回にわたってマシュー・フリンダースについてお伝えしましたが、偉大な海洋探検家の名を冠した大学に在籍していながら「へー、フリンダースね~」と何の関心も持っていなかった自分の罪滅ぼしになればと思います(笑)
ちなみに、軍艦の名前についている”HMS”とは”His/Her Majesty’s Ship”の略で「国王・女王陛下の船舶」という意味です。

